【うきはDMO】麺のように長く、しなやかに、味わい深く。 情熱と絆が盛り上げる“麺の聖地”のストーリー。

「福岡のソウルフードといえば?」福岡人にそう問えば、ほとんどの人がこう答えます。「ラーメンかうどんに決まっとろうもん!」
では、この福岡グルメ界の二大巨頭を影で支える「麺の聖地」をご存知でしょうか?
それは、島原(長崎県)、神崎(佐賀県)に並ぶ「九州三大麺どころ」の一つである「うきは市」。他の麺どころは素麺が有名ですが、うきは市では、うどんやラーメンといった乾麺も多く製造され、旧浮羽郡時代には実に福岡県内の約8割の生産量を占めていたとか。多くの農作物を生み出す筑後平野と筑後川の恩恵を受けているにしても、なぜうきは市だけが「麺の聖地」と呼ばれるまでに成長したのでしょうか?
その謎を解くなら、さまざまなアイデアで勝負してきた、うきは製麺界のスティーブ・ジョブズこと栗木商店の四代目・栗木良祐さんにお聞きするしかない!早速、栗木商店さんへ伺いました。


栗木商店さんは伝統的な素麺に加え、乾麺や生麺、今では個性豊かなオリジナルインスタントラーメンを製造しています。時流を読みながらさまざまな方向性を打ち出した栗木商店さんの変遷は、まさにうきはの麺産業の歴史とシンクロしているのです。
まずは、うきは市の農業を大きく発展させた、江戸時代の出来事から紐解いていきましょう。

五人の庄屋が命を懸けて叶えた農業の夢を次の世代へ

栗木さん:うきは市の農業がガラリと変わったのは、江戸時代の事です。それまでは筑後川沿岸と言っても土地が高く、水を田んぼに引くことができませんでした。見かねた五人の庄屋が『工事をすることで損害があれば極刑に処されても異存なし』と、命をかけて久留米藩に嘆願し、当時としてもかなり大規模な灌漑工事が実現したのです。この時にできた水路により、浮羽地方では米と麦の二毛作が始まり、やがて水車による製粉業が根付いたんです。特に製麺業に関わる我々は、今でも五人の庄屋への感謝を欠かさず、地域を盛り上げる企画を実施しているんですよ。


命を懸けてまで郷土のために尽くした方々が開いた大きな可能性。その時の感謝の気持ちを今までずっと持ち続けているなんて、地元の人々の喜びはどれほどのものだったことでしょう。そして、他にもさまざまな要素が麺の発展を助けたそうです。

栗木さん:市内に農業運搬機製造会社の『筑水キャニコム』という会社があるのですが、こちらはもともと鍛冶屋。江戸時代には鍬や鋤などの農機具をどんどん作っていらっしゃったのも大きかったですね。それに天候についても、内陸部は昼と夜の寒暖差が大きく、乾麺づくりにとても適しているんですよ。

地の利に合わせて、時代の流れも影響しました。明治時代にお隣の佐賀県神崎で製麺機が開発されたのです。その後は浮羽地方でも機械製麺が主流となりました。当時の主流は素麺。栗木さんによると「素麺は最高の保存食」なのだとか。

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寝かせるほどにウマくなる!素麺のヒミツとは?

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