【SALTな人vol.8】リラックスできる環境で生まれたアイデアが建築に活きる。

2015年4月、福岡市西区今宿に誕生した海辺のシェアオフィス『SALT』。このシェアオフィスは、私たち「福岡移住計画」が運営しています。オープンしてから4年が経過し、『SALT』にはどのような方々が入居し、日々空間を共有しているのか。シリーズ「SALTな人」では、利用者の視点から『SALT』という場のリアルについてお話を伺います。

今回のインタビューは、住宅や施設などの設計を手掛け全国を飛び回りながら活動する建築家の木内浩司さんです。恩師の遺言をきっかけに上京し、さまざまなピンチをくぐり抜けながら全国で活躍されるまでになった経緯やエピソード、そして今後のチャレンジについてお伺いしました。

恩師の遺言で東京へ

ーー前回の遠藤さんに引き続き、フリーアドレス会員の木内さんにお話を伺います。まずはご出身と、ご経歴についてお聞かせいただけますか?

出身は四国の香川県です。小さいころからプラモデルなどを作るのが好きで、ものづくりに熱中する少年でした。その後、本格的に建築の道を志すようになり、大学進学をきっかけに福岡にきて、建築科に進学しました。

ーー福岡には大学生の頃にゆかりがあったんですね。木内さんは関東に15年以上住まれていたとお聞きしましたが、その後お仕事の関係で上京されたのでしょうか?

学部を卒業した後に都市計画の研究室に1年間所属していたんですが、その時に僕の人生を変えるきっかけになる人に出会いまして。
東京から移住してきた建築士さんで、とても勢いのある人でした。建築科の学生と新しいことを始めたいからと、出会ったその日に「設計事務所やるぞ!」と宣言。彼が所長となり、僕を含めた学生5名で設計事務所を設立しました。ところが、晴れて事務所をスタートした当日に所長のガンが発覚して、残念ながら1年後に亡くなられたんです。所長亡き後もなんとか自分たちだけで事務所を回したんですが、社会のシステムも知らない学生上がりの僕たちでは限界がきて、3年ほどで解散となりました。

当時はまだ携帯電話が登場し始めた頃で、ましてや今のようにインターネットも一般に普及していない。情報はテレビや雑誌媒体で得るような時代でした。それもあって、亡くなる前に所長が「情報が早い東京へ行ってこい」と言っていたのを思い出して。遺言のような言葉でしたし、何のツテもなかったんですが、若さと勢いで上京。その後3ヶ所の設計事務に3年ずつ勤めて実務経験を積み、独立しました。

▲上京時の頃

ーー人生を動かす大きな出会いがきっかけで上京されたんですね。東京ではどのようなお仕事をされていたんですか?

最初の事務所では木造建築をメインに取り扱っていました。その後、もっと色々な建築をしたいと思いアトリエの事務所に転職。最後に就職した新宿の事務所では、住宅、店舗、施設、マンション、素材も木造、鉄骨、コンクリート…と幅広い仕事を一からすべて一人で担当させてもらえたこともあり、建築家として大きく成長することができました。当時は神奈川から電車通勤していたんですが、終電を逃すことも珍しくないほどがむしゃらに仕事に打ち込みましたね。

独立に向けて自信がついてきたそのタイミングで、高校の同級生からマイホームの設計の依頼があって。これは今だなと思い独立を決断。独立して最初の仕事だったので、模型も20個以上作るほど気合いが入りました。ところが、突然同級生の転勤が決定してマイホームの話が白紙に…。当時子どもが産まれたばかりだったのに、仕事がなくなってしまいお先真っ暗。まずは生活費を稼がねばならないと思い、請負の小さな仕事だけでは心もとないので、神奈川の結婚式場でアルバイトをしながら食べつなぐ生活でした。
この状況はまずいなと思ったので、時間を見つけては次の仕事に繋がりそうな場に顔を出し続けましたね。転機になったのは、同郷の工務店の社長との出会いです。彼はフランチャイズ事業も手がけていて、その試験に受かれば全国の工務店や上場企業との仕事に参加できる仕組みがあったんですけど、運良くそこに自分も入ることができたんです。それを機に、少しずつご縁が重なって、全国から定期的に仕事依頼がくるようになりました。この出会いがなかったら今ここにもいないと思うので、ぎりぎりの状況でも行動し続けてよかったです。

▲幻となった処女作の模型

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不意の福岡移住

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