【ぼくらの会社見学vol.05(前編)】“みんな家族のよう”明太子の広まりはそこから。(ふくや)

商品やサービス自体は知っているけれども、どこのどういう会社が手がけているものだろう?
ふと、そう思ったことはないだろうか。このコーナーはそんな会社の中身を見学・取材させていただくことで、福岡県内の素敵な会社の本質を紹介していくものです。

福岡を代表する名物・辛子明太子は、どうやって誕生したかご存知でしょうか? 辛子明太子の生みの親といえば、(株)ふくや創業者の川原俊夫さん。2013年には同氏をモデルにしたテレビドラマ「めんたいぴりり」が放送され、来年1月には映画も公開予定で、全国的に名を馳せています。そして現在5代目の代表取締役としてふくやを率いているのが、俊夫さんの孫にあたる川原武浩さんです。
今回の会社紹介は、創業時のエピソードからこれまでの道のり、そして福岡への思いまでお話を伺うことができましたので前編・後編の2つにわけてご紹介します。

―ドラマや映画、最近ではテレビ番組で特集が組まれるなどで周知されていることではありますが、改めて、まずはふくやさんが創業されたときのことをお教えいただければと思います。

私の祖父・川原俊夫は釜山で生まれ、満州の電力会社に勤めていました。第二次世界大戦では沖縄の宮古島に配属されていたのですが、生き残って、本家のある福岡に引きあげました。そのとき祖父は、「生き残った身として戦後の復興に責任があり、社会に貢献しなければならない」と強く思ったようです。
昭和23年10月、川原俊夫と妻がふたりで、中洲市場に食料品店『ふくや』を開店したのが当社の始まりです。乾物や缶詰などを仕入れて販売しており、遠くは神戸までチーズを仕入れに出かけ、つてをたどって輸入物も多く扱っていたようです。当時の店頭の写真を見ると、今でいう『カルディコーヒーファーム』のような品ぞろえに干物も並んでいるような、和洋ミックスな世界でしたね。

―はじまりは食料品店だったのですね。仕入れ販売の食料品店が、なぜ明太子を売ることになったのでしょうか?

当時は天神市場や千代町に店や人が集まっていて、できたばかりの中洲市場には、あまりお客さまが来なくて…。そんな中、仕入れで生のたらこが入ってきたので、釜山で食べていた「明卵漬(ミョンランジョ)」というたらこの唐辛子漬けを食べたくて作ったようです。そして、せっかくだから売ってみようというくらいの気持ちで、店頭に初めて並べたのが昭和24年1月10日でした。
開店からわずか3ヶ月で明太子を作って発売というスピードなので、お店はよっぽど暇だったのでしょう。祖母は来てくれたお客さまにお茶を出して、引き留めていたようですし(笑)。特に年末年始は物が動かないので、時間があったようです。

―その明太子は初めからよく売れたのでしょうか?

いえ、それが全く売れなかったんです。しかも、買ってくれた人から翌日に「辛い!」と言われて、発売翌日が初クレーム記念日ですよ(笑)。日本人は唐辛子で漬けたたらこなんて食べたことがなくて、口に合わない。でも、売れなくても諦めずに工夫して作り続けたようです。
昭和25年頃はまだ、明太子は知る人ぞ知るというモノでした。西鉄ライオンズが球団を誘致するとき、西鉄の方がGHQにつながりのある白洲次郎さんに会いに行く際の手土産として、うちの明太子を渡したというエピソードが残っています。
徐々に売れ始めたのは、昭和30年代になってから。この写真は昭和28年の店頭の様子ですが、ご覧いただくとわかるように、まだ店の端にちょっと置いている程度です。

―その後、ふくやさんが作り方を教えたことで、他の店も明太子を作るようになったとか。

最初は昭和37年、中洲市場でうちの向かいにあった『いとや』さんに製法を教えました。この頃になると、うちの店頭に行列ができるようになっていました。ただ、「中洲市場に入って4軒目に明太子というものが売っていて美味しいらしい」と噂を聞いて人が来るけれど、中洲市場は入口が3つあり、ふくやはサブの入口から数えて4軒目。皆さんはメインの入口から4軒目に間違えて行くわけです。それが『いとや』さんでした。それで「もう面倒だから、商品を預かって売らせてくれ」と『いとや』さんに言われて、ならば作り方を教えるから自分で作って売ってみたらと提案したのが、製法を教え始めた経緯です。
その次は、隣の『むかい』さんに製法を伝えました。ただ、作り方はしっかり教えたけれど、味付けは店それぞれで工夫して、バリエーションが出るようにしたようです。

―川原俊夫さんは、全て自分が作って卸すことで儲けようと思わなかったのでしょうか?

うーん、中洲市場は戦争で引きあげてきた人たちばかりで、みんな大きな家族のような感じだったので、そういう考えには至らなかったようです。

―それからどんどんと明太子が広がったのですね。

うちから独立した方が開いた店や、もともとうちに原料を卸していた会社が明太子を作るようになったケースもあり、最初はほとんどつながりのあるところでした。祖父は、人それぞれ味の好みがあるので、競い合いながら1番を目指そうという考えで、「初めに作ったから偉いんじゃないぞ」とよく言っていたそうです。明太子メーカーが増えて「元祖・本家とかつけたほうがいいんじゃないか」と言われたときは、「そんなものを書いてうまくなるのか」とえらく怒ったらしく、そんなことではなく、常により良い明太子を作ることを考えていたのでしょうね。

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明太子が福岡名物になったのは?

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