福岡県の南東部にあるうきは市。耳納連山に抱かれ、筑後川が流れる自然豊かな地に、今回の主役「イビサ スモークレストラン」は静かに佇んでいます。杷木ICから南へ車を走らせること約30分。
秘境のような雰囲気すら漂う山道を進むと、川沿いの景色に絶妙になじむ素敵な建物が姿を現します。破天荒でユニークだったと自らが語る父親から店を継いだ2代目の尾花光さん。今回は、尾花さんが丸太をダイナミックに焚火にしてくれ、そこで焚火料理を作ってくれました。シンプルに見えて焚火で素材の本来の味をじっくりと引き出す最高の料理を頂きながら、店の成り立ちやご自身のこと、求めている人材まで、いろいろな話を聞かせて貰いました。是非みなさまも一緒に火を囲んでいるような気持ちで読んで頂ければと思います。
イビサ暮らしの経験を生かして店を開業
―「イビサ スモークレストラン」は1988年にお父さまが開業されたのですね。開業までの話を聞かせてください。
親父の尾花新生はうきは市吉井町生まれで、9人兄弟の末っ子。画家になりたくて高校卒業後に上京したものの、生活のためにレストランやバーで働き、地元に戻って福岡市でパブを開業しました。すると、店は九州派の前衛的な画家や詩人のたまり場に。でも、彼らの態度が目に余り、「オレが絵描きになる」と一念発起。ここ注連原(しめばる)にこもって、山での暮らしを送りながら描いた絵が売れるようになったそうです。
―山で暮らしをつくりながら絵を描いていたんですね。
それからさらに海外でも活動の場を求めインドネシアを訪れて、日本人の母と知り合い、ふたりでスペインのイビサ島へ。母はスペイン語が堪能でタイル作家なんです。1970年代後半、いろんな国の思想家など、濃厚な人たちがたくさんいるイビサ島で兄貴が生まれて、家族3人で帰郷。1981年に僕がここ注連原(しめばる)で生まれ、さらに双子の妹たちが生まれました。
―まるでドラマのような話ですね。それからレストランを作られたのはなぜでしょう。
この地域の更地に自分たちで建物をセルフビルドで建物を建てて生活していたら、噂を聞きつけて居候が入れ代わり立ち代わりやってきました。仕事に疲れた人、訳アリのひとたち、外国人など、本当にいろんな人が家に来てましたね。父は、さらに彼らが生活できるようにしなければという思いも含めて共に働く場所として作ったのがこの店です。スペインで食べたハムやサラミを試行錯誤して作ると評判になり、2003年には福岡市薬院にスペイン料理店「イビサルテ」も出しました。
兄弟で故郷に戻って父親の店を継いだ
―光さんはここで生まれ育ったのですか。
はい、僕が小学2年生までうちにはガスがなくて、毎週日曜は兄貴と山に入って杉枝をリアカーいっぱいに積んで帰り、七輪と風呂用の薪を作っていました。僕が最初に覚えた刃物は包丁じゃなくて斧なんですよ。「なんで~」みたいに嫌々やってましたけどね(笑)。
小学2年生のときにイビサができて、手伝いをしながら料理を覚えました。東京の高校に行って、卒業後はこちらに戻ってレストランで働き始めました。
―お兄さまはどうされているのでしょう。
兄貴も一緒に働いていて、僕がこの店、兄貴は福岡市の店にいます。わが家には「若いうちに旅に出ろ」という教訓があって、小学生のうちから兄弟で北海道の牧場にホームステイに行ったり、ふたりでスペインを旅したり、僕は高校生の頃に1か月タイに行ったり。ただ、子どもの頃から店を継ぐつもりで、ここに帰って来ると決めていました。
料理と人生の師匠は、裸の料理人とひつじ飼い
―料理は店で学ばれたのですか。
スペインをはじめアジア、モロッコ、メキシコ、アメリカなどでさまざまな食文化に触れて、料理は基本的に独学です。たまにスペインへ学びに行き、中でも僕のベースになっているのは断崖絶壁にあるレストランで裸のトニーが作る料理です。お金持ちが噂を聞いてクルーザーで集まるような店で、地元の食材を使った郷土料理が本当においしいかった。
もう一人、僕の師匠にフランシスコという羊飼いがいます。21歳のときにスペインで出会ったのですが、彼は石積みや左官ができて、家畜を飼っていて、チーズも生ハムもワインもオリーブも全て作れる。無口でシャイな人ですが、僕の滞在中に全てを教えようとしてくれました。
とても心に残っているエピソードがあるんです。山道を歩くとき、僕らは人が歩いた道を行くけれど、彼は道なき道をどんどん歩いて行く。「光、これが本当の道だ」と。人が歩いた道には何もなくて、彼は自然の道を歩いてキノコなど何かを見つける。彼のやること全てがすごいなと感動していました。今でもこの言葉が、僕の中の人生の一つの軸になっている部分もありますね。
―個性的なふたりに影響を受けたのですね。
裸の料理人と羊飼い、強烈に「かっこいいな!」と思える人たちです。ふたりには共通点がある。それは、生まれ育った土地の全てを心から愛しているということです。
―故郷に戻った尾花さん一家と重なる気がします。光さんはお父さまの店をそのまま引き継がれたのですか。
僕らが帰って来てから、老朽化していたレストランをほぼ建て直しました。親父は石積みが好きで、僕らも手伝いながら大工さんにもお願いしました。経営としては、冬場になるとお客さんが激減するので厳しかったですね。それで、いろいろなことを変えました。働き方も試行錯誤で変えていきました。父は年中無休で11時から19時まで働いていましたが、僕らが継いでからいろいろと変革していき、今では土日の11時から15時のみ営業しています。キッチンや工房を使いやすくしたり、薪ストーブと薪ボイラーを入れたり、改装して川側にテラスを作ったり。こういうことって、レストランを営業しながらは本当に難しいんです。なのでどれだけ店や地域に注げる時間をつくるか?を試しながら、5年間かけてようやく改装が終わったところで、豪雨被害に遭い店の三分の一を失いました。お金も気力もすべて使い果たし、途方にくれました。
―2012年7月の九州北部豪雨ですね。
しかもあの日7月28日に出産予定日だった妻は、豪雨の中でなんとか、ヘリコプターで運ばれることになり、そして無事に娘が生まれました。この豪雨で店は風評被害があるかなと覚悟していたのですが、(メディアの取材を受けたりして)、お客さんがすごく応援してくれたおかげでそこまで風評被害もなく、早く復興できましたことはすごくありがたかったですね。今は前向きに受け止めることができていますが、その当時はお金も、気持ちも尽きたところで、さてどうしようと。でも、下を向いては居られない。そこからさらに3年かけて、店を再構築していきました。
1000年続く村を残すため自伐型林業のこと
―新型コロナウィルス感染症の影響はいかがでしたか。
緊急事態宣言で店を閉めている間にいろいろな活動をして、進みたい方向が見えてきました。まず、レストランの近くにある築150年の農家を、市が再生して宿泊施設兼文化財にした「古民家 注連原」を管理させてもらうようになり、村の歴史にすごく興味を持つようになりました。1000年以上続くこの村で、昔の日本人はどんな生活をしていたのか。80歳を過ぎた人たちに話を聞くと電気がなく、牛を飼って田んぼを耕し、自分たちで作った草鞋で学校に行っていたと。それを聞いてなんてすごいんだと思ったんです。しかし、このおじいちゃん達が亡くなってしまったら、そういう暮らしのスキルや知恵はすべて失われてしまう。そんな危機感を強く持つようになりました。
―村のあちらこちらにある石積みも印象的です。
そうなんです、この村は石積みや建築の技術がすごくて、昔の人たちが本当にそれこそ神がかった感性で積んでいるんですよね。1000年以上の歴史がある村で、注連縄(しめなわ)が上手なおじいちゃんが居たり、昔から大切に受け継がれてきた技術や、ずっと続いてきた【山の神】という祭りがある。でも、文明が入ってきて100年足らずで、脈々と続いてきた村の文化は途絶えかけている、僕らがこの祭りをやめたら自分たちの代でそれが終わってしまう…。本当に終わらせていいのだろうか…今はそんな分岐点にさしかかっています。僕らはどうやってこの3世帯になってしまった村を残していくか、考え続けています。
―注連原村では何世帯が生活されているのですか。
豪雨災害によって7世帯から3世帯になりました。60年前は、30世帯子供も100人以上いたそうです。林業の衰退によって、どんどん人が減っていってしまったんですね。しかし裏を返せば、この山の価値をきちんと伝える林業というものを、今の時代に合わせて復活することができればまた人も戻ってこれるのではないかと考えるようになりました。そこで、村を残すために今「自伐型林業(じばつがたりんぎょう)」に注目しています。大規模な林業ではなく、自分たちで小さな道をつくり、間伐を繰り返すことで木の品質を上げて山の価値を高め、強い山にしながら災害を防ぎ、そして収益も上げるという方法です。
かつてこの村には林業があったから人が住んでいたけど、木の暴落によって衰退した。林業。しかし今の時代に合わせて再び盛り上げれば、自立して住んでいけるのはないかと。自伐型林業の第一人者といわれる先生にお会いして、人間的に学ぶこともたくさんありました。これから、レストランの売上で山を買い、収益になるかどうかを挑戦していこうと思っています。
―村を残していくためには、収入があり生活できることが大切ですね。
そうですね。人が住むメリットのある場所にして、この村を未来に引き継いでいきたいんです。コロナというものが人々の価値観を変えた今こそこういう暮らし方の価値を伝えていきたいですね。もちろんレストランも頑張って、うちの子たちがここに帰って来たい、ここに居た方が幸せだと思えるような地域にしたいですね。さらにこの地域をしって好きになってもらうために、レストランで音楽好きのための「イビサ祭り」を長年続けたり、村の円形劇場で100年前にタイムスリップしたようなイベントをやったりと自らの手でエンターテイメントも創っていこうともしています。スキルを得られ、そして愉しみも自分たちの手でつくる。そんな地域になって、人が幸せに暮らせる場所を創りたいですね。
多彩な経験が可能!短期間働いてくれる人を求む
―今回は一緒に働く人を募集されるそうですね。
うきは市では、私達が運営するレストランが2つあります。ここイビサスモークレストランと、吉井町の「カフェ&バル溜(たまり)」。日本各地から集まったスタッフが働いています。ただ、これ以上、フルコミットのスタッフを入れるとお金を稼ぐために仕事を拡大しなければならないし、一人前に育てようと思うと僕がしっかり関わることになる。
でもそうなると、時間を切り売りするような生活になってしまうので、それは避けたい。地域をつくる時間(畑をしたり山に入ったり)、豊かさを伝えるためのイベントをしたりということに時間を使わなければならないので、これまでの雇用という形の関係性ではない新しい仕事や村づくりのかかわり方を実験してみたいと思っています。スキルを得たい人と村を創りたい私達が出会い、お互いにWINWINになるような仕組みはできないかなと。お金としては月数万円の支払いになるかもしれないけれど、寝床や食事は3食用意します。数年単位で働くというよりも、1か月単位で短期でもいいので働いてもらうような仕組みができればと思っています。料理や接客、宿泊業をはじめ、村づくりのいろいろ面白い動きを見て経験してもらえます。少しでも興味を持ってもらえたら、まずは気軽にご連絡ください。
―ありがとうございました。
今回、尾花さんの言葉の一つ一つが、焚火の火と一緒に私達の胸を打ちました。変化の激しい時代の中で、価値観を大事にしながら、変化を乗りこなし、探索していく。そしてどんな困難も乗り越えていくたくましさは、今の時代に本当に必要なことのような気がしてなりません。働き方の変化の時代に、尾花さんのような人の人間性に触れながら様々なスキルを身に付けられるならば、そんな働き方は魅力的だなと思いながらお話を聞きました。
(聞き手:須賀大介 文:佐々木恵美 写真:小金丸和晃)
店舗名 | イビサスモークレストラン |
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募集期間 | 決まり次第終了 |
募集職種 | 調理スタッフ(村づくりにも関わりながら) |
採用人数 | 若干名 |
雇用形態 | 居候をしながら、店や村づくりに協力してもらう業務委託を考えています。 |
勤務地 | 福岡県うきは市浮羽町田篭719 |
勤務時間 | 応相談 |
給与 | 応相談 |
福利厚生 | ・3食付き ・住居付き |
休日休暇 | 応相談 |
仕事内容 | スモークレストランイビサ、溜での調理およびハムづくり、加工品づくり、村づくりの一環としての山の整備、DIYなど様々なスキルを得て頂きます。 |
応募資格 | 【歓迎するスキル・経験】 未経験も可能。人間性、やる気を重視します。 |
選考プロセス | STEP-1.当サイトへのお申込み STEP-2.面接(履歴書(写真付)・職務経歴書を持参) |
備考 |